みどりの言の葉

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がけの上の・・・

5ヶ月ぶりに実家へ。
1週間前からリル(愛犬)へのドキドキはMAX毎日存分にベッタリ。そして笑いの渦に包まれる日々。

ダン(大きい愛犬)を撫でながらテレビを見ていると、彼の顔が私のアゴの下へすっとはいりました。そして、上に跳びました。口が半開きだったあたしは、『カチーン』って音の後にアゴを押さえ言葉もなくのたうちまわる…あれ?お父さん静かだ。気づいてない?ならばさわいでも悪いな…でも……『ぃ、ぃたい。ギャハハ…いたい』そのとたん爆笑する父。ただごとじゃない場合に備えて笑いをこらえていたらしい。

お出かけ中、『お腹が痛いから、気をまぎらわすために歌う』と早○田の校歌を歌いはじめた母。意表をつかれました。数日後に作者についてのニュースをみる。

運転中、『真っ直ぐでいいの?』と聞くと『迷わず行けよ』という父。『ほんとに真っ直ぐ?』『行けばわかるさ』。そして左を指しながら『右』と言い、『さっき左って言わなかった?』と更に間違える母。『二人には後で話があります』と伝えた夜、イノキではなく一休和尚の言葉だとメルマガが届く。

頼まれたお土産、銀座まで買いに行けなかったのに羽田で期間限定でオープンしてたり、ちょっぴりの不思議があった日々でした。

今回、両親にほんのわずかですがおこづかいを渡してきました。ご飯食べられるかなってくらいの微々たる金額。母は遠慮して自分の物を買わない人。父はレコードを集めるのが趣味な人。よく掘り出し物を見つけてきます。こないだクラシックレコードが破格値で大量に出ていたらしく、渡した分全部を使って何十枚とレコードを買ってきました。定価で計算するとかなりの金額、そして珍しいものもたくさんあったらしい。「すっごく喜んでたよ」って聞いて、素敵な使い方をしてくれるなーと。報告なんていらないほどの、あたしだったら日常で消えてしまっていたであろう金額を、あたしにとっても何倍もの価値にしてくれてありがとう

実家のトイプー『リル』、よく「ああ、上海帰りの、だ」と言われます。
あたしはその歌しりませんが。
実家での楽しみの1つは犬達との散歩。これだけのために帰ると言ってもいい。野苺の季節だったので、大型犬の『ダン』に与えて「その黒い苺を詰ませろ」と鼻をもいだりします。こんな田舎でも少しずつ景色が様変わりしています。埋立中の場所へ行って、栗林やカブトムシが集まっていた木も埋め立てられるのね~と、崖ギリギリのところにいました。下は多少なだらかですが結構な高さが。「土が柔らかいから落ちてもケガはしないけど、登れないね~」って父と言っていました。
ところでリルは目が見えません。少しの光を感じるくらいで、あとは勘。車が通るところは気にしていたのですが、その時はまったくのノーマークで。『そうだ。リルとライオンキングごっこしよう(リルを崖からかざして王子が生まれたと森中に知らせるシーン)』と横を見てみると…!!!

少し離れたところで崖から落ちまいと懸命に突っ張っとる!身体はすでに平地にはなく、斜めになって突っ張った足がブルブルと震えてる。走って行って尻尾を捕まえようと思ったけど、その振動で落ちて行かれたら…
『リルがっリルがっ』と叫ぶあたし。その声を聞いて決死の覚悟でジャンプしたリル…失敗したらどうすんだよ
。父は『これからは「崖の上のリルだな」』と。「崖の上にはいなかったよ」って笑いながら帰りました。
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by midoleeloo | 2009-05-17 23:48 | 徒然なる日々

いづこへ、我孫子へ

我孫子で『KOJO』の上映会に参加。

その前に、あたしの座右の銘のひとつに『笑わせるのはいいけど、笑われるのはいやだ』というのがあります。
主催者の一人に、『(もう一人の主催者の)彼女とは何つながりなんですか?』と聞くと、『…えっと、戸籍上の夫婦で…』

上映後の食事会で、地元に詳しい方が、白樺にも陶芸があるとおっしゃったので、『何焼きなんですか』って尋ねたところで注文の話とごっちゃになったのかなぁ、『え?カバ焼き??』って。文学を焼いてしまった。

作品はこれまたタイトルから、題字から、引き付けられるものがあり。登場人物は3人と思いきや、実は4人でした…監督含め。観ていたイメージは、古城氏について語るとそこから光がでて、氏のホログラムを作る感じ。そして反対側からは別の色の光でホログラムができる。失ってしまった視覚的な質量を埋めるように。また逆に投影されることで自らを宣言する…。氏に対する想いを先にか語り、登場人物の素性が後からわかってくるのは、今も氏が他人に影響を与え続けていること…つまり今も生が続いてる気がしました。その人を証明するのは、結局のところ周りの声なのかなと。たくさんの証言のピースを探しだして原形をみつけだそうとしているような、しかしできあがったものは重要ではなく、その過程や、ピースから推測・想像するものがリアルなのかもと思いました。滅びた原因は関係なく、生きている様子を調べるのが考古学なのか。死が生を超えることはないのだな。

食事会も楽しく、聞きたいことも聞けました次回はいつかなぁ…あオールナイト上映だ。
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by midoleeloo | 2009-05-11 23:47 | 徒然なる日々

小岩へ

急遽、小岩まで出かけてきました。空が近い日。そして、あたしの日。

「あもーるあもれいら第2部」の上映です。もう一度観たかったので、嬉しい。駅から少し離れていて上映時間を過ぎてました。でも間に合った。

同じ映像を観るのは、ゆっくり落ち着いて観ることができる反面、最初の新鮮さとか、自分の中に起こる衝動がもう二度と味わえないのねとちょっと寂しくもある。

夢中になっていて、終わった時には「あ、小岩にいたんだ。しかも映画館」って、すっかり別世界にいました。

内容については最初の感想を重視するとして、なぜ監督の作品に惹かれるのかというと、作者の意図を感じないからだと思う。もちろんベースとなるものはありますが、ドラマにするために映像をねじまげたり、ドラマチックにもしない。だから自分の体験に引っかかるものがばらばらで、観る人が観たいように観ることのできるもの。

それは上映後の質問にもあらわれていて、質問を聴いているのが面白い。これだけ上映する時によって質問が変わるなんて、映像は変わらないものなのに生きてるように見えてしまう。ほんと、おもしろい。
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by midoleeloo | 2009-05-04 23:46 | 徒然なる日々

ただ、わかる

ずっと理解できなかったんです。

友達が「今までは辛いことから学んできたから、これからは楽しみから学ぶって決めた」って言ってたこととか。先の「魂の螺旋」の「ただ繋がると思えば繋がる」ってこととか。通っていたスクール(友達曰くの『摩訶不思議スクール』ね)での、「中身を見なくていい。ただ手放しなさい」という教えとか。
自分のチョイスで学びを選べるの?ただ繋がるって?どーしても中身を見てしまうよって。
たとえば、以前誰かを傷つけて、その気持ちを知るために反対の状況を与えられる・・または同じ状況を与えられるってことは納得できる。今の人々はそのループにはまってしまい、同じところをぐるぐる回っているってことも。最初に生まれていた頃は純粋に「体験したいことを体験する」ためだけに生きていたんだろうし、
最近、カルマをまったく持たない子供たちが生まれているということも知りました。
じゃああたし達は、ただカルマを返すためだけに生きてるってこと?同じだけ体験しないと次のステップには進めない??それが、「ただ繋がると思えば繋がる」ってどーいうこと??

ずっと理解できないだろうと思っていた問いに、突然の答えが降りてきた。もしかしたら英語がある朝目が覚めたら理解できるようになった人がいるように、ある一定の情報量を超えたのかもしれないし、答えを受け取る太いパイプが繋がったのかもしれない。とにかく、突然。そして、ほんとに簡単。「ただ繋がると思えば繋がる」それだけだった。なまけ者でいるのが、実は一番早いのでした。

「ただ繋がると思えば繋がる」を体験するために。ひとつめは『その中に入り込む必要はない』ということ。
犯した罪は同じような状況を体験しないと消えない?
誰かを傷つけたら、傷つけられるまで螺旋は切れたままなの??
そんなことはない。
あたしは戦争を体験したことはないですが、その悲惨さは知っているし体験したいとも思いません。残っている映像、書物、体験した人の話、それだけで内容をうかがい知ることができます。これで戦争を起こしたら、「先人に学べなかった」という恥ずかしいレッテルを貼られてしまう・・・。
それと同じで、「眺めて知る」だけで同じ効果が得られる。体験したくないこと(誰かを傷つける、傷つけられるとか、とにかく体験したくないこと)は、その本質を理解したら「あたしは体験しなくていいです」って決めればいいんです。わざわざ学校へ行かなくても通信教育でOKなんです。その他に体験したいことはたくさんあるから、そっちを体験すればいいのです。

ふたつめは『自分のことをゆるす』こと。
誰かを傷つけた自分を、理想と違うことをした自分を、道徳に反したことをした自分を、誰かに傷つけられた自分を、誰かを憎んだ自分を、誰かを許せない自分を。とにかく、ゆるす。
多くの人が「自分に一番批判的」なのかもしれません。だからちょっと意識して「オールOK」な人物をつくります。 「あたし、こんなことしたの」『いいよ、いいよ』 、「どうしても許せないの!!」『それだけ傷ついたんだね』
って全てを肯定していく。どんな大きなことも小さなことも。続けていくとその出来事が気にならなくなって、ちょっと一歩ひいて見ることができるようになってくる。そうすると、ひとつめの「眺めて知る」ことに繋がっていきます。その時に「はい、もう知りました」と思えばよいのです。カルマとしていつか返したり体験したりすることがなくなって、切れていた螺旋が繋がるのです。
じゃあ、相手の思いはどうなるの?って考えます。相手が傷ついて思いを残している出来事はカルマとして残るんじゃないの?って。それはね、相手の中に残ります。相手は同じような体験を別の人とすることになるでしょう。もしかしたら、魂の約束をして戻ってくることもあるかもしれないけれど、あたし達の「目的」はカルマ返しではないので。
「自分をゆるすこと」ができるようになると、「他人をゆるす」ことがいつの間にかできるようになります。もしかしたら「なんとか自分の味方をしたい」自分がいて、相手を責めることで保とうとしているのかも。だけど、「オールOK」な自分がいるからもう必要なくなるんだと思う。
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by midoleeloo | 2009-05-04 22:38 | 徒然なる日々